北原遥子さん、御巣鷹山に散った悲劇のタカラジェンヌの思い出

今、朝日新聞が、何故か宝塚歌劇の古い話を連載している。
かって取材していて、どれも目の当たりにした話ばかりだ。
この中で、一つ目を引いたのが、日航ジャンボ機墜落で
御巣鷹山に散ってしまった、北原遥子さんだ。

宝塚生徒一覧表昭和56年7月1日を見ると
雪組の研究科1年生の所に成績2番目でのっている。
昭和57年8月1日を見ると成績3番目にそして
昭和58年8月30日の生徒一覧表には掲載されてるが
この年に宝塚歌劇をやめたのだ。

北原遥子さんは入団したとき、振り付けの喜多 弘さんが
横転できる人というと、いの一番に見事な横転を稽古場で見せて
後に、あの子の横転はすごいですと語ったのを覚えている。

美しい顔立ちの彼女は皆と集まる食事会にも
顔を見せていたが、物静か人だったのを記憶している。
当時のそんなときの服装も地味だった。
仲間たちと何枚も写真を撮った。

彼女の美しさは音楽学校合格発表のときから
際立っていた。

稽古場では比較的無口で、当時のプロデユーサーが
彼女は体操をしていたので、孤独がちなんですと話したことが
あった。

池田銀行のポスター候補には何人かいたが彼女が決まり
店頭に飾られたポスター写真の美しさはひときわ目を引いた。

おしゃべりの少ない北原遥子は、それでも心の中は暖かな物を持ち
人に対しては礼儀正しく接していた。

正月は年賀状をちゃんと送ってきた。

ある夏の日、宝塚大劇場の楽屋で、生徒の取材をしていた。
そのとき、楽屋口の出口のところに、北原遥子さんがいた。
そのとき何故か、彼女はとおくから、私の名前を読んで、手を振った。
笑顔で何回も手を振ったのを、今でも鮮明に記憶している。

うんうん、わかったよ、君も元気でねと声は届かないけど、心の中で
そう話した。

それが別れだったのだ。
暑い夏の日、事故を知り、大阪空港の対策本部に走った。
ふと心の中で、ひょっとして、彼女のことだから
暑中見舞いのはがきが来るかなと、その後しばらく
ポストを毎日除いたが、届かなかった。

後の話だが、稽古場から横転したまま姿を消した彼女は
退団者の名簿に載らなかった記憶があるが、その後
彼女の研究科3年のときの組長が銀あけみさんという
人格者で、彼女が劇団に対して、北原遥子を正式退団者に
してくれないなら、自分たちもやめるというぐらいの、抗議を
したという。

宝塚歌劇団80年史には北原遥子、昭和59年退団とある。

ご両親の知らない彼女の姿は心の中にしまってある。
今でも稽古場から感じた彼女の姿は、まれに見る
すばらしい娘役だったと思っている。

最近知った曲で彼女を思い起こさせるものがある。
その曲のタイトルを見たとき、そう感じた。
ヘルマンハープという楽器で演奏されてる
「会えるそのときまで」という歌だ。

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